団塊・シニアビジネスの未来

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2007年7月30日 団塊マーケティング 電通

「団塊・シニアビジネスの未来」という題目を頂戴した。1日先も100年先も未来といえるので、本稿ではおおむね20年先、2030年頃を対象とする。その頃の「団塊・シニアビジネス」はどうなっているかの予感を述べたい。

「シニア」と名のつくものはなくなる

シニアという言葉には本来年齢の定義はない。だが、筆者が1999年の敬老の日の朝日新聞への寄稿で「まだ介護が不要で元気な50歳以上の年長者」をアクティブシニアと定義したことから、これが日本で広まったようだ。

さて、本稿の題目に反して、2030年には「シニアビジネス」という言葉はなくなっているだろう。その頃、団塊世代は80歳を超え、人口のうちの50歳以上の割合が51%となる。すると、いわゆる「シニア向け」のビジネスというのが空気のように当たり前の存在となる。

かつてモーターが世の中に登場したときに、差別化技術として脚光を浴びた時期がある。だが、さまざまな商品の一部品として普及するにつれてモーターの差別性は忘れ去られた。これと同様に、全人口に対するシニアの割合が多くなれば、「シニア向け」という名称に差別性はなくなっていく。

そして、同時に「シニア」と名のつくものは、ほとんどなくなっていくだろう。電通シニアプロジェクトも残念ながら姿を消すだろう。「シニアビジネス」という私の著書も、昔の一時代を記した古典(?)として語り継がれることだろう。

医療技術の革新が新たな商品・サービスを生み出す

一方、シニアビジネスという言葉はなくなったとしても、80歳代の団塊世代を含めた年配者向けのビジネスはなくならない。それどころか、現在では想像のつかないような新しいビジネスが数多く生まれているだろう。

歴史的に世の中が大きく変化するとき、技術革新がきっかけとなっていることが多い。これからの20年で特に注目されるのは医療技術の革新だ。これにより、人間の寿命が飛躍的に延びる可能性がある。

現在、アメリカを中心に世界各地で老化のメカニズムを解明する研究が取り組まれている。これらの研究によると、人間の老化には、①神経内分泌説、②フリーラジカル説、③細胞消耗説、④カロリー過剰説、⑤遺伝子支配説の五つがある。

①の神経内分泌説は、体の中に分泌される種々のホルモンが複雑に絡み合った結果、老化するというもの。したがって、こうしたホルモンの分泌を抑制したり、補充したりすることで部分的に老化を防ぐことができると考えられている。

②のフリーラジカルとは、本来一対で持つべき電子を1つ失っているために過剰反応を起こす電子のことで、DNAの突然変異を起こしたり、細胞膜を破壊したりする。

③の細胞消耗説は、人間の体は使えば使うほど磨り減っていくという考え方である。

④のカロリー過剰説は、過剰なカロリー摂取が老化の原因だとする考え方だ。

以上の各説に基づき、現在さまざまな商品開発がなされており、すでにいくつか商品化されているものもある。

DEHAやメラトニンといったホルモン増強剤、フリーラジカルからの攻撃に対して効果的なビタミンやマンガン、亜鉛といったミネラルを含むサプリメント、細胞の磨耗を緩和するたんぱく質のコラーゲンを補給するサプリメントや化粧品などがその一例だ。

今後20年間にこの分野で、さらに多くの商品・サービスが出現するだろう。

団塊世代が80歳代になる頃、寿命150年時代を迎える

一方、興味深いのは⑤の遺伝子支配説だ。これは、老化するのは生まれた時点でプログラムされている遺伝子によって支配されているため、という考え方だ。

これによると、人間の寿命は最大限124歳といわれる。人間の場合、細胞分裂の回数が62回までと限定されており、人間の細胞分裂は2年で一巡するので、寿命の上限が124歳となるという。

拙著「いくつになっても脳は若返る」(ダイヤモンド社)でも紹介した世界最高齢の公式記録をもつフランス人女性ジャンヌ・ルイーズ・カルマンは、122歳と164日生きたが、この記録は遺伝子支配説にも一致する。よって、遺伝子情報を徹底的に解明することで、老化を支配しているプロセスを制御できる可能性がある。

こうした遺伝子工学の発展に並行して、近年注目を集めているのは「トランス・ヒューマニズム」と呼ばれる考え方だ。

これは「老化現象は病気の一種に過ぎず、その治療や予防は技術革新により可能で、人類は150歳あるいはそれ以上の命をもつことができる」というもの。

こうした考え方をもつ人たち「トランス・ヒューマニスト」によると、今後20年間でこの分野の研究開発が本格的になり、実用化に向かうという。ということは、団塊世代が80歳代になる頃は、寿命150年時代を迎えている可能性がある。

現在の高齢者の定義は65歳以上となっている。ところが、40年以上前には高齢者の定義は55歳以上だった。つまり、こうした定義は平均寿命の関数であり、平均寿命の延びと共に変わっていく。

したがって、平均寿命が150歳になった場合、65歳の人をもはや高齢者とは呼ばないだろうし、80歳の人ですら高齢者とは呼ばないだろう。冒頭にシニアが人口の大多数になるのでシニアビジネスという言葉がなくなると述べた。この理由はここに述べたように、寿命150年時代が現実化することでシニアという言葉の意味が大きく変わることからもお分かりいただけるだろう。

寿命150年時代に何が変わるか

さて、人間の寿命が150年になると何が起きるか。寿命が延びるということは人生において何かをやることのできる猶予時間が増えることを意味する。これは人間の潜在能力をさらに開花させる可能性を広げることになる。

しかし、同時に長く生きる分の費用も必要となる。たとえば、90歳で寝たきりになったまま150歳まで生き延びれば医療コストが膨大にかかる。だから、寿命が延びる場合は「健康寿命」が延びるのでなければ有益とはいえない。

一方、仮に、ほとんど病気もせず、健康で過ごせるとしても、毎日の生活を維持するための食費などの生活費は必要となる。さらに、65歳で仕事を辞め、たとえ健康で過ごせるとしても、65歳以降何の仕事もせずに85年間過ごすのは大変なことだ。

つまり、寿命が延びると、その分だけ「お金」と「やりがい」が必要になる。これをどうサポートするかが求められる。

寿命が延びるとライフステージの質や順序が変わる

現在の標準的なライフステージは、平均寿命を80歳として、定年退職65歳、就職22歳前後として想定されている。しかし、平均寿命が150歳となれば、現状のライフステージは大幅に変わらざるを得ない。たとえば、現在のように65歳前後で退職し、悠々自適で暮らすというのは、前述のとおり生活費用の面でほとんど不可能になる。

したがって、たとえば、90歳までは“現役”として収入を得て働き、その後を年金と貯蓄と副収入とで生活するというパターンが一般的になるかもしれない。

年金については、現在のところ支給開始年齢が段階的に上がり、2013年度から65歳からの支給開始となっている。

しかし、2013年以後も現状のような少子化傾向が続き、前述のとおり“シニア”の割合が増えれば、現在の賦課方式の年金制度はバランスが崩れ、支給開始年齢をさらに高め、支給額を減らし、保険料を増額しなければ成り立たなくなるだろう。

人間の寿命延長は、この危うい年金制度のバランスをさらに崩す“加速器”の役割を担う。もし、年金制度が存続するとしても、平均寿命が150歳になるのなら、支給開始年齢は、たとえば90歳あるいはそれ以上にならざるを得なくなる。

ライフステージの質が変わると労働市場も変わる

こうしたライフステージの変化は、生涯収入カーブの設計も変えていく。現在の一般的な収入カーブでは、22歳前後で就職してから給与収入が発生し、65歳の退職までおおむね金額も増えていった。退職後は給与収入はなくなるが、それまで蓄積した資産の利回りや配当と年金とが収入となった。

しかし、寿命150歳時代には、年金の支給年齢も遅くなり、支給額も少なくなると見込まれるため、年金をあてにしない収入カーブを設計せざるを得なくなる。つまり、誰もが文字通り「生涯現役」に近づいていく。

さらに、年金受給がない若年者(実はどの程度の年齢を若年者というのかもあいまいになる)との総収入の差が少なくなることから、現存するシルバー人材センター経由で安い給料で職につくような機会は少なくなる。

こうして年齢に関係なく、その人の業績で評価されるフラットな賃金体系が市場に形成される。これに併せて定年制度は廃止され、それを後押しする日本版の「雇用における年齢差別禁止法」も制定されるだろう。

こうした動きを通じて、25歳の人も85歳の人も能力が同じであれば、同じ条件で雇われるようになり、労働市場に革新が起こるようになるだろう。

最後に

ここまで、今後20年に医療技術を中心とした技術革新が起こり、それが新たな商品・サービスを生み出し、個人のライフステージを変え、社会制度を変え、労働市場に革新を起こすと述べた。これはあくまで筆者の予感に過ぎず、未来が必ずしもそうなるというわけではもちろんない。

ただ、確実に言えることは、過去の延長線上に未来はないということだ。多くの選択肢のなかから、かくあるべし、というビジョンのもとに必要なものを選び取り、存在しないものは創り上げるしかないのである。

未来を予測する最良の方法は、それを創ること - アラン・ケイ

かつて、フリードリヒ・エンゲルスが「道具が意識を進化させる」と述べた。こうしたさまざまな環境変化により最も影響を受けるのは、実は人間の「意識」や「知的能力」である。これを語るには紙面が足りないので、この話は別の機会に譲りたい。

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