シルバー産業新聞 連載「半歩先の団塊・シニアビジネス」第152回
社会制度が変わっても生涯お金を稼げる力を持つ
人生の後半期には、特に「健康不安」をいかに解消するかが重要だ。歳をとっても心身が健康ならば多大な医療費や介護費は不要となる。
一方、たとえ心身の健康を維持できたとしても、長生きすれば医療費や介護費以外のお金が必要だ。人生100年時代と国は喧伝しているが、果たして国は私たち一人ひとりの100年人生を保証するだろうか?
現在の定年はおおむね60歳から65歳の間である。国は近い将来これを75歳まで引き上げる目論見だ。国が制度として定年を75歳まで引き上げたら、会社もそれに従って制度としての定年を75歳まで引き上げるだろう。
しかし、問題は65歳を過ぎたすべての社員がそれなりの待遇で会社に居続けられるかどうかだ。おそらく年金の支給水準は現状よりも低くなり、仕事で収入を得ないと生活が厳しくなるだろう。
一方で、社員に給料を支払う会社のコスト負担能力にも限界がある。ということは、会社にとって必要な人材は65歳を過ぎてもそれなりの処遇を受けられるが、そうでない人材は処遇水準が下がるだろう。そして、後者が大多数になる可能性が大だ。
このような「新たな労働市場」が形成されることを想定した場合、いったい私たちはどう対処すればよいのだろうか?
結論から言えば「社会制度が変わっても自分で生涯お金を稼ぐ力を身につけること」が必要だ。そのためには「自分軸」で生きるスタイルを持つことだ。
「会社軸」で生きると「自分軸」で生きる
「会社軸」で生きるとは、「会社の基準」を中心にして生きるということである。会社の基準とは、会社ミッションや組織文化、社風、ならわしなどだ。
多くのサラリーマンは「会社軸」で生きていると思う。そして「会社軸」で生きている時間が長いほど、自分の生き方や日々の行動のかなりの部分が、会社の規則や社内慣行に強く影響を受けている。
実は、私自身もかつて大企業にいて、その会社軸でどっぷりと生活していた時期があった。最初に就職した会社は「大家族主義」を掲げ、「社員とその家族は全員、会社の大家族である」という考え方だった。
住居は社宅、休日には会社のイベントがあり、嫁が欲しければ会社の上司が縁談を持ってきて、結婚すれば手当が増え、転勤の引っ越しは社員が手伝う、といった具合だった。社宅に住んでいる社員の子供同士がけんかすると会社の人事部に相談が来るということもあった。
このように社業で仕事をする場合以外のプライベート生活にも会社が大きく関わっていた。こうした「社員を家族のようにみなす経営スタイル」は、私の古巣以外にも高度成長期の企業にはよく見られた。
一方で、ずっとその会社に居続けるつもりであれば生活の安定はほぼ保証されていたので、見方によってはとても楽な仕組みだった。
現代はこれほどの家族主義を謳う企業はほとんどないと思うが、サラリーマンの多くが「会社軸」で生きている点はそれほど変わりがないと思う。
これに対して「自分軸」で生きるとは、「自分の基準」を中心にして生きるということだ。こういうと「そんなの当たり前じゃない。俺は自分の基準で生きているよ」という方もいるだろう。
しかし、自分の基準で生きていると思っていても、サラリーマンを長くやっていると、無意識のうちにどっぷりと「会社軸」で生きているものだ。
では、なぜ「会社軸」でなく「自分軸」で生きることが重要なのか。目に見えて給与や待遇が向上するかつての高度成長期なら、「会社軸」で生きることでもよかっただろう。
いわゆる「企業戦士」と呼ばれた人たちは、すべての生活が会社中心であり、まさに「会社軸」で生きていた。
その時代は経済成長が続き、会社も成長し、給与もどんどん上がっていった。そして、定年退職すれば多くの退職金をもらえ、年金や社会保障も今ほど将来不安がなかった時代だ。
しかし、それはおおむね団塊世代よりも上の世代のことであり、現在はそういう時代ではなくなった。加えて、会社軸で生き続けることには多くの弊害があるからだ。